多田先生は合気道の稽古で連想行を大切にされています。連想行というのはイメージトレーニングのことです。技の手順や流れだけではなく、触覚や視覚、慣れてきたら聴覚・味覚・嗅覚などの感覚もイメージしていきます。多田先生は連想行で、今でも開祖と稽古をしているとおっしゃいます。開祖に稽古をつけていただいた身体の記憶を大事にしているということではないかと思います。昔の自由が丘のご自宅を出て、都電に乗って植芝道場へ向かい、着替えて待っていると開祖がいらっしゃり、祝詞をあげるところから厳かに稽古が始まり、道場の雰囲気やにおい、開祖のお声、みんなの動く音、そういったことを具体的に思い出しながら連想行を行うそうです。
合気道では先生に技をかけていただいた時の感覚、特に触覚が大事だと思いますが、そういった身体の記憶を頼りに自分の技を磨いていくのが大事だということではないかなと思います。私はありがたいことにたくさん先生の手を取らせていただいたので、沢山の記憶が身体にしみついています。
その中でもよく覚えている記憶がいくつかあり、その一つはこの時期になると毎年思い出すのですが、合気道月窓寺道場での寒稽古の記憶です。もう14、5年前のことになりますが、その年の寒稽古では朝稽古を含め一週間、1コマを除いてそれ以外の時間はすべて太刀取り(木剣取り)をやりました。太刀取りをやらなかった1コマ以外の時間ですべて私は受けを取らせていただき、それはかけがえのない私の財産になっています。
普段から先生の受けを取らせていただいた時にたびたび、もっと小指をしっかり締めろと言われていて、また本部道場の各先生方の稽古に参加させていただいた時もよく、小指をしっかり締める、というお話は聞いていて、自分なりには研究していたつもりなのですがいまいち感触としてしっくりくるところが見つかりませんでした。
一週間の太刀取りの稽古で一番最初に行ったのは、相手が振り下ろして、しっかりと小指を締めて持っている木剣を取るという技法でした。私が木剣を振り下ろした時には既に横に入身をしている先生が、私の両手の間の柄の部分をすっと取り、私の両手の内から刀を抜き取ります。簡単にとられてしまう私に、もっとしっかり小指を締めろと先生は何度も注意します。いつも通りしっくりこないまま、組んで稽古が始まるのですが、自分が取りで相手の木剣を取ろうとした時に、ふっと自分が先生に取られた時の感触が頭をかすめ、すっと取れます。自分が受けを取った時の感じが、取りの時にすっとそのまま出せた、という感じです。その時の感じが、私にとっての小指を締めるという感覚になっています。 なかなかその感じを言語化するのは難しいのですが、身体の使い方の意識的にはとてもはっきりしているけれど、実際の動きや相手と触れている感触的にはふわっとしています。ふわっと柔らかく相手と触れる、という意味ではなく、曖昧な部分があるということです。そのふわっと感こそが相手が変わっても、同じように身体を使えるコツだと思います。相手が変われば当然変わらなければならない部分がありつつ、変えてはいけない部分も当然あるわけで、うまく変える(変わる)部分が、そのふわっと感の部分です。そのふわっと感が柔らかかったり硬かったり、強かったり弱かったり、前に出したり後ろに引いたり、右にいったり左にいったり、臨機応変に変化します。ちなみに「変える」と「変わる」はこれまた当然、異なる現象なのですが、敢えて併記しているのは、自分で意識して「変える」時もあれば、自分では意識していないけれど潜在意識の働きで「変わる」時もあるからです。
書いている自分でもよくわからない文章になってきましたが、稽古の中でうまくいったやり方は大事にしていかなければなりませんが、相手が変わったときに、全く同じやり方ということはあり得ません。相手が変わったときに(あるいは同じ相手でも相手が変化した時に)、変えることのできるやり方あるいは自然と変わってくるようなやり方、そんな余地を、自分の心と身体に持つと良いのではないでしょうか。それが先の文章のふわっと感です。文章を書いていて、もともと書こうと思っていた内容とだいぶ変わってしまったのですが、これはこれでまとめて、身体の記憶その2をまたそのうち書こうと思います。
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